ASD長男、小学校に 七転び八起きブログ

3歳で軽度ASDと診断されたものの、外では頑張れてしまう特性の為に就学相談では通常級判定が出された長男6歳。知覚過敏、睡眠障害はかなりあります。

おいたち⑨ 療育

昨日、今日と、学校の門の所までではなく、その先の下駄箱のところまで付き添っています。まだ始まったばかりなので同じようにされている親子はたくさんいます。ケンは学校が近づくにつれてテンションが下がっていき、「学校、怖い…」と言い、目に涙をためながらも、下駄箱まで迎えに来てくれている6年生に連れられて何とか教室に向かっています。昨日は授業初日でしたが、朝のテンションの低さとは裏腹に、上機嫌で帰ってきました。教室に入ってしまえば何とか切り替えができているようです。 

 ケンは3歳児から1年間療育に母子通園しました。4歳児から2年間は単独通園でした。最初の年は週に二日、幼稚園に週二しか通えなかった4歳児の時は週に三日、幼稚園に週三で通っていた年長の前半は週に二日、幼稚園に週四で帰っていた年長後半は週に一日通っていました。

 

 3歳児の頃は「外ではきちんとやる」というこだわりがまだできていなかった、もしくは私が一緒にいることでそのこだわりが発動されなかった為に、問題行動がしばしばみられました。みんなで踊る、となっても踊らない。走りましょうと言われても走らない。歌いましょうと言われても歌わない。最初の頃は指示の大変を拒否していました。遊具で遊ぶときには、他のお友達が使っているものは絶対に使わず、誰も使わなくなるのを待って使い、そこに他の子が一緒に遊ぼうとやってくると、その場を去ってしまいました。3歳児の終盤になって仲の良いお友達が一人でき、そこから急に友達と遊ぶ楽しさに目覚めたようで、積極的に他の子と遊ぶようになりました。

 療育では、感覚過敏へのアプローチとして粘土やスライムをよく使って遊んでいました。最初は触りもしなかったスライムにいつのまにか慣れてしまったのは驚きでした。

 4歳児、5歳児と進み、私がそばにいないためか、「外ではきちんとやる」こだわりが発動されるようになり、問題行動もなくなっていきました。5歳児の頃、幼稚園での成長と比べて療育での効果というものはどれほどあるのか?と疑問を抱いてしまった時期もありました。幼稚園でも「まったく何も問題ありませんよ」と言われるようになると、本当に療育を続ける意味はあるのか?と悩むこともありました。

 

 でも、本人は外では頑張っているとはいえ、もともとの感覚過敏はそのまま残っていることも、家庭での生活でわかっていました。色々な不快感を「我慢」で乗り切っていることもわかっていました。例えば、ケンにとってお弁当の時間は苦痛でした。できたてを食べる時と違い、お弁当独特のにおいが本人にはかなり苦痛となったようでした。でも「先生が残さず食べましょうって言ったから」と、毎日ほぼすべてを食べていました。その分、家ではお弁当に何を入れるかで私と衝突し、ごく限られたメニューばかりをひたすら求めました。要するに、この頃になると県の地雷がどこにあるのか私がほぼわかっていて、その地雷を避けて生活をしている状態でした。地雷を踏みさえしなければ何も問題ないものの、地雷が無くなっているわけではない、ということは、たまにやむを得ず地雷を踏んでしまった時によくわかりました。

そのため、やはり最後まで療育は続けることにしました。 療育は小規模のアットホームなところだったので、毎日登園すると複数の先生方が「ケンくーん」と声をかけてくれました。体調不良や通院、入院などの情報を一人の先生に話すと帰るころには全員が共有してくれていて、皆さんが「大丈夫?」と声をかけてくれるような感じでした。ケンの、困り感が外からはわかりづらい特性も療育の先生方はよく理解してくれていたので、私も本音で相談ができました。自分の子供のことを熟知している人が自分たち家族以外に何人もいる、というのは、昔の日本ならいざ知らず、現代においてはとても貴重だったと思います。

そのため、やはり最後まで療育は続けることにしました。  療育は小規模のアットホームなところだったので、毎日登園すると複数の先生方が「ケンくーん」と声をかけてくれました。体調不良や通院、入院などの情報を一人の先生に話すと帰るころには全員が共有してくれていて、皆さんが「大丈夫?」と声をかけてくれるような感じでした。ケンの、困り感が外からはわかりづらい特性も療育の先生方はよく理解してくれていたので、私も本音で相談ができました。自分の子供のことを熟知している人が自分たち家族以外に何人もいる、というのは、昔の日本ならいざ知らず、現代においてはとても貴重だったと思います。